4.確固たる信念を持つということ
ある男が井戸を掘り始めましたが、数フィート(※)掘り進めたところで、別の男がやってきて言いました。
「なぜここで無駄な骨折りをしているの?この下に水脈は見つからないよ。乾いた砂が出てくるだけだよ。」
男はその言葉を信じてその場所を去り、また別の場所を選んで掘り始めました。そこでも彼は見知らぬ人に出会い、その人はこう言いました。
「以前、ここに井戸があったけど、無駄な骨折りなんかしてないで、もう少し南へ行って掘れば、素晴らしい湧き水が見つかるよ。」
彼はすぐにその助言に従いました。
しかし、そこでもまた別の男に邪魔されて、掘るのをやめてしまいました。かれは、選んだ場所で何度も何度も邪魔をされたため、ついに井戸を掘り当てることができませんでした。
同じように、精神的な修行の道においても、無責任な先生がいて、その指示に従うことで、多くの人々が得ていたもののすべてを失ってきました。
ある時は一人の師に従いますが、彼らには信念の固さも、道中で現れた誘惑や試練、苦難に耐える強さもありません。そのため、その師を見捨てて別の師に従い、さらに三人目の師に従います。
最終的には、ひどい無神論者(虚無主義者)になるか、あるいは「この人生で精神的な優れた境地に到達することなんてとても不可能だ」という結論に達してしまうのです。
精神的に理想的な成長を望む者は誰でも、一人の師に対して確固たる信念を持ち、絶対的な信頼を寄せ、限りない忍耐で、そのアドバイスに従わなければなりません。
※ 1フィート=約30センチ。数フィートは1メートル前後のこと。
この譬えには、3つの核心があるようです。
・「情報の洪水」の危険性 現代はアドバイスや選択肢が多すぎます。他人の意見に振り回されると、何一つ形にできません。
・「深掘り」することの価値 成果が出る直前で諦めて場所を変える行為は、それまでの努力をすべてゼロにします。
・「信じる力」の強さ 困難や誘惑に直面したとき、最初に決めた道(師)を信じ抜く強さが、最終的な成功(湧き水)をもたらします。
でも、単純にこのように割り切ってもいいのでしょうか?
井戸掘りは修行の話で、無責任な男たちは、悟ってもいないのにあれこれと知ったかぶりしていろいろ言う人ですね。井戸を掘る人も、頼りないのではないでしょうか。
このラーマクリシュナの言葉を、ヴィヴェーカーナンダの後継として25年もの間、西洋で教えを広めたアベダーナンダ流に解釈するとどうなるでしょうか?
「井戸の水(真理)は別の場所にあるのではない。今、あなたが立っている足元の深い底にある」
井戸を掘り当てられない男は、「答えを外側に求める心の弱さ」の象徴。通りすがりの知ったかぶりの男たちの言葉に惑わされるのは、内側を深く掘り下げる忍耐から逃げ、手っ取り早い正解を外に探しているからに他なりません。
また、口先だけで邪魔をする人々は、「自らは努力せず、指図することでエゴを満たすだけの指導者」です。
アベダーナンダは、その雑音から身を守るためにこそ、確固たる信念が必要だと言います。盲信ではなく、「自らの知性で選び抜いた一つの道(師)を、何があっても信じ抜く不動の覚悟」を持つこと。それこそが、内なる深い真理へとたどり着く唯一の鍵なのではないでしょうか?
「本物の師」を見極める5つの鉄則
- 無欲であるか:お金や所有欲から自由な人か。
- エゴ・自己を消しているか:自分の偉大さを誇らず、常に「あなたの内なる神性」にスポットを当てているか。
- 知性と自由を尊重するか:教義で脅したりマインドコントロールをせず、疑問や批判にも理路整然と向き合ってくれるか。
- 言行が一致しているか:言葉以上に、その存在自体が周囲の心を清らかにするような人格的深み(波動)があるか。
- 直接体験から語っているか:知識の受け売りではなく、自らが「井戸を掘り当てた(真理を体験した)」という確信から語っているか。
※ 師が見つからないときは、どうしたらいいでしょうか。
身近に理想的な師が見つからなくても、以下の道があります。
- 歴史の試練に耐えた聖者を師とする
純粋さが証明された過去の偉大な聖者の「言葉(経典・書物)」を師と定めます。 - 「部分的な師」と割り切る
現代の指導者からは知識を学びつつ、あくまで「一時的なガイド」として冷静に付き合う。 - 「内なる神(アートマン)」を最大の師とする
これこそがヴェーダーンタの結論です。実際に湧き水(真理)を湛えているのは、あなた自身の心の奥底です。
外側の世界に答えを探しすぎて疲れたときは、一度立ち止まり、深い自分自身の内側を掘り下げることに専念してみてはどうでしょうか。そこには、あなただけの「永遠の湧き水」が、最初から静かに眠っているはずです。


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