10.最高の至福を味わう
まずは、訳文から見ていきましょう。
二人の男がマンゴー園に入った。
一人は門をくぐるなり、園の中に何本のマンゴーの木があるのか、それぞれの木にどれだけ実がなっているのか、さらにはこの果樹園の価値はいくらになるのかと、あれこれ計算を始めた。
もう一人は園の持ち主のところへ行き、親しく言葉を交わした。そして木陰に腰を下ろし、主人の許しを得て、熟したマンゴーを摘み取って食べ始めた。
さて、どちらが賢いだろうか。
マンゴーを食べれば空腹は満たされる。
葉の数を数えたり、余計な計算をしたりして、何の役に立つだろうか。
計算好きな男は、果樹園の細かな事情を調べることに夢中になっている。
しかし純真な男は、主人と親しくなり、その恵みを受けて、この世で最も甘美な喜びを味わうのである。
この寓話に登場する二人の男は、神を求める二つの生き方を象徴していますね。
ひとりは、果樹園に入るとすぐに木の本数を数え始めます。
どれほどの面積があり、どれほどの価値があり、どのくらいの収穫が見込めるのか――。
彼の関心は、果樹園そのものの分析に向けられています。
一方、もうひとりは違いました。
彼はまず園の持ち主に会い、親しく語り合います。
そして許しを得たうえで、木陰に座り、熟したマンゴーを味わいます。
果樹園の価値を知ることよりも、その恵みを実際に受け取ることを選んだのです。
ラーマクリシュナはしばしば、「神について論じること」と「神を体験すること」との違いを語りました。
宗教や哲学を学ぶことは決して無意味ではなく、聖典を研究し、教義を理解し、宇宙の仕組みについて考えることにも価値があります。
しかし、それらはあくまで地図です。どれほど詳細な地図を眺めても、実際にその土地を歩かなければ風の匂いも、花の香りも知ることはできません。
同じように、神についてどれほど語っても、神を愛し、祈り、瞑想し、その存在に触れなければ、本当の意味で知ったことにはならないのです。
この寓話で特に重要だと思うのは、二人目の男がまず持ち主のところへ行ったことですね。
彼は果実だけを求めたのではありません。
まず主人と親しくなり、その結果として果実をいただいています。
ラーマクリシュナにとって、神は単なる哲学上の話ではありませんでした。
生きておられる存在であり、愛することのできる存在であり、語りかけることのできる存在でした。
だからこそ、「神を知ろうとすること」よりも、「神と親しくなること」の方が大切だと教えたのです。
マンゴーは、神との交わりから生まれる精神的、スピリチュアルな歓喜を象徴しています。
その喜びは、理論や議論の中にはなく、祈りの中、瞑想の中、神への愛の中にある。
葉の枚数を数えることに人生を費やすよりも、たった一つの熟した実を味わう方が価値がある。
神について知るだけで満足するのではなく、神を体験すること。
ラーマクリシュナは、この短い寓話を通して、「計算する人になるよりも、味わう人になりなさい」と私たちに語りかけているのかもしれません。
第7話 川を渡れなかった男たち(エゴという余計なもの)
第8話 バラモンと乳搾りの女性(自己を明け渡す)
第9話 歩く者と抱かれる者(神への信頼)
第10話 マンゴー園の二人(神との体験を味わう)
と、これまでの寓話で、少しずつ深いところへ導かれている流れが見えてきますね。

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