5.ラーマの名のお守り
まずは、第5話の訳文から見てまいりましょう。
ある男が川を渡ろうとしていました。
聖者が、彼にお守りを渡し、「これを持っていれば、水の上を歩いて渡ることができるよ」と言いました。
男は、深い信仰心を持ってそれを受け取り、水の上を歩き始めました。川の中ほどまで来たとき、男の心に好奇心が湧き上がり、「お守りの中にいったい何が入っているのだろう」と中身を開けて見てしまいました。
中には一枚の紙きれがあり、そこにはただ「ラーマ(主)」という神聖な名前が書かれているだけでした。
男はそれを見て、「なんだ、これっぽっちのものが、お守りの中身だったのか?」と軽蔑するように思った途端、彼は川の底へと沈んでしまいます。
奇跡を起こすのは、主の名に対する揺るぎない信仰。その信仰こそが生命であり、疑いは死をもたらすのだ。
このお話は何をいいたいのでしょうか?
信仰はよくて、疑いがなぜだめなのでしょう。
ただ「信じろ、疑うな」と言われても、私たちは盲信や騙されるリスクを知っていますし、「疑うことで真実が見える」という局面も人生には多々あります。
ラーマクリシュナや、直弟子であり西洋に教えを広めたスワミ・アベダーナンダの目線から見ると、「信仰(Faith)」と「疑い(Doubt)」は、一般的な道徳とかや理性といった話ではないようです、もっと純粋な「心のエネルギー」といえるようなものを指してはいないでしょうか。
- 「奇跡を起こす信仰」の正体
ラーマクリシュナが言う信仰は、大いなるもの(宇宙の本源)への100%の信頼」です。
男が最初、水の上を歩けたのは、「お守りがあるから絶対に大丈夫」と完全に安心し、心が一切ブレていませんでした。この「自我の消えた」とき、人間は自然(宇宙)の法則を超えたエネルギー(奇跡)と繋がるとされます。これに対し「信念」は自我の力で、「信仰」は「大いなる力にすべてを委ねる」という自我の手放しですね。勿論、信念が自我の放棄まで達すると奇跡につながるのではないでしょうか。 - なぜ「疑い」がダメ(死)なのでしょうか?
疑いは、「エネルギーの分裂・分散」を意味します。
水底に沈んだのは、お守りを開けた瞬間、男の心には「えっ、ただの文字?」「本当にこれで浮いてるの?(「deprecatingly軽蔑的に」が使われています。)」という不安が生まれました。心が分裂した途端、それまで繋がっていた大いなるエネルギーとの回路が途切れ、現実の重力の法則(=川の底に沈む)に引き戻されてしまったのです。(※)
ラーマクリシュナはよく「疑いは、バケツの底に開いた小さな穴のようなもの。どんなに神聖なエネルギー(水)を注いでも、疑いという穴があればすべて漏れ出てしまう」と言っていました。
※ 新約聖書でも、弟子ペトロが水の上を歩く途中で「強い風」を見て怖くなり、疑った瞬間に沈んでしまう有名な場面がありますが、これも全く同じ心のメカニズムを伝えています。こちらの不安は恐れ(fearfully)、不安のニュアンスが違うようです。そこでは、イエスは、「信仰の薄い者」と言っています(マタイによる福音書14章22~33節)
- 「理性の疑い」と「心の弱さ」
ラーマクリシュナ自身も弟子に、「私の言うことを盲信するな。納得してから受け入れなさい」と、探求のための疑いや理性(ジニャーナ・ヨーガのプロセス)は推奨していました。
今回の寓話が戒めているのは、探求の際の理性でなく、「一度信頼して歩き出したのに、途中で恐れやエゴに負けてしまった心の弱さ」のようです。
ラーマクリシュナは神(母なるカーリー)に完全に没入し、自我を滅却していたからこそ、水の上を歩くどころではない数々の神秘体験(サマーディ)を体現しました。彼にとって、信仰とは「100%の純粋さ」そのものだったというわけです。
神の名に対する全身全霊の信頼に力がある というお話でした!!
【明日の予告】今日のお話では、男は「ラーマの名」のお守りを疑ったために、川の底へと沈んでしまいました。明日お届けするお話では、同じ「ラーマの名」への信仰によって、広大な「海」を一跳びで渡ってしまう話です。
明日は、「この川底へ沈むと海を渡るという、二つの違いはどこにあるのか?」がテーマになります。どうぞお楽しみに。


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