第12話 ~ ラーマの沈黙 ~


12.どこもかしこも、すべてが神
 ラーマチャンドラは、師の教えによって深い悟りに触れ、
世俗を離れて修行の道に入ろうと心を定めた。

これを知った父ダシャラタ王は、賢者ヴァシシュタを呼び寄せ、
息子を諭してほしいと願い出た。

ラーマのもとを訪れたヴァシシュタは、
その身に深いヴァイラーギャ(無執着)の気配が満ちているのを見て、
静かに語りかけた。

「ラーマよ、世俗を捨てる前に、まず私と語り合おう。
ひとつ尋ねたい。
その“世俗”というのは、神から切り離されたものなのであろうか。

もし神とは別の存在だというのなら、
お前にはそれを捨て去る自由もあるだろう。
だが、もしそうでないのなら──
一体、何を捨てるというのか。」

ラーマはこの言葉を深く熟考した。
そして、神がジーヴァ(個々の魂)として、
また世界として顕現し、
その存在の中にすべてが溶け込んでいることを悟った。

すべてが神であるならば、
捨てるべき対象など、どこにも存在しない。

そう悟ったラーマは、
もはや語るべき言葉を持たず、
ただ静かに沈黙した。


この話はいったいどんなことを伝えたいのでしょうか?

この第12話「ラーマの沈黙」では、悟りに触れたラーマは、世俗を離れて修行の道に入ろうと決意しますが、賢者ヴァシシュタは、その前提そのものに問いを投げかけます。

「その世俗というのは、神から切り離されたものなのであろうか。」

その一言が、ラーマの心に深い洞察を呼び起こしました。
もし世界が神とは別の存在であるなら、捨てることにも意味がある。
だが、もし世界そのものが神の顕現であるなら、捨てるべき対象は最初から存在しない。

ラーマは、神がジーヴァ(個々の魂)として、また世界として姿を現し、その存在の中にすべてが溶け込んでいることを悟る。
その瞬間、捨てる・捨てないということなど、静かに消え去り、
彼は言葉を超えた沈黙へと入っていく。

ここでの沈黙というのは、語れば、再び「神」と「世界」の分離が生まれてしまうから、ラーマは語らず、沈黙している。

ところで、これまで、第2話では、高い壁の外に戻るということで、世界(外側)と神(内側)の区別がまだありました。前回の第11話ではシロップという甘露に飛び込む、「神の中に飛び込む」という主体と対象の関係が残っていました、そして今回の第12話では、「どこもかしこも、すべてが神である」と悟る。

「世俗を捨てるべきかどうか」という問いは、むしろ、“捨てるべき世俗”という概念そのものが、心の中の区別から生まれている。

この話が伝えようとしているのは、「神ではないもの」を探して排除しようとしているうちは、決して悟りに至らないということではないでしょうか。そもそも「神ではないもの」など最初から存在しないから。


【 用語の説明 】

※ ヴァイラーギャ(無執着・離欲)
 物や結果、感情へのこだわりを手放すこと。欲望を否定するのではなく、執着から生まれる恐れ・怒り・苦しみから自由になるための実践。
※ ジーヴァ(個々の魂)
 本来は永遠で純粋なアートマンが、肉体や心(エゴ)と自分を同一視してしまっている状態。無執着・離欲の実践を通して心の波が鎮まると、宇宙の真理(ブラフマン)と一体であることを悟るとされる。

コメント