第7話 ~川を渡れなかった男たち ~


7.エゴイズムという余計なもの
 これまで、第5話、第6話と、川を渡る途中で沈んだ男、海を一跳びで渡ったハヌマーンの話でしたね。今日は、この川や海を渡る話にまつわる最後の話です。

まず、訳文から見ていきましょう。

弟子は師の無限の力を固く信じ、師の名前を唱えるだけで川を渡った。
師はこれを見て、「私の名前にもそのような力があるというのか?
ならば私は間違いなく偉大で力強いに違いない!」と心の中で思った。
翌日、弟子も「我、我、我」と唱えながら川を渡ろうとしたが、水に足を踏み入れた途端に沈んで溺れてしまった。
信仰は奇跡を起こすことができるが、虚栄心やエゴイズムは人の死を招く。

 この譬え話は、何が言いたいのでしょうか?

この話の中心にあるのは、「心の向きが違えば結果はまったく違う」ということのようです。弟子の心は師への深い信頼に向かっていました。一方、師の心は、「自分はすごい」という自分の方に向いてしまいました。

弟子を支えたもの、それは、心が向かっていた揺るぎない信。弟子の姿は「自分で力を誇る人」ではなく、「自分を超えたものに心を委ねる人」の姿だと読むこともできます。

この話の内容を、3つの観点から見ると、次のようにとらえることができますね。

  1. 弟子が渡れた理由
    弟子が川を渡れたのは、自分の能力を信じたからではなく、むしろ逆で、自分の小さな力を前面に出さず、師に対する信頼に身を預けたからですね。
  2. 師が沈んだ理由
    一方、師が沈んだのは、力を失ったというより、力の源を取り違えたからです。弟子の信によって起きた出来事を見て、本来なら「信の力は大きい」と受け取るべきところを、「私の名前に、自分に力があるのだ」と誤解してしまいました。

アベダーナンダは、『How to be a Yogi』(ヨーギーになる方法。邦訳なし)の中で、真のヨーギーは「エゴイズム、誇り、虚栄、世俗的野心から自由でなければならない」と述べています。
また、より高い力に触れる者であっても、それを好奇心や利己心、名声のために用いないことが強調されています。
この話の師は、まさにその逆を行ってしまったために沈んだ、と理解できるようです。

  1. 「我、我、我」の重し
    我に執着するとき、そのことが人を重くします。信が心を軽くして前へ進ませるのに対し、エゴイズムは心をこわばらせ、沈ませる、重しということではないかと思うのです。

これまでの寓話で出てきた、川は単なる川ではありませんね。人生の困難、日々営む人間のあり方を象徴しているようでもあります。
そこでは、人を支えるのは、謙虚さと信頼なのだと、この話は静かに教えてくれてはいないでしょうか?

私たちは、たとえば、うまくいった出来事のあとで「自分は特別だ」と思い始めた瞬間に、かえって足元をすくわれることは、日常の人間関係や仕事の場面でも少なくありません。自分だけで何とかしようと力むより、信頼できる教え、支えてくれる人、あるいは自分を超えた価値に心を向けたとき、不思議なくらい道が開けることがあります。
このラーマクリシュナの寓話は、そうした普遍的な心の法則を、分かりやすい形で示したものとして読むことができるようです。

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