18.集中から静慮へ From Dharana to Dhyana
サギが魚を捕まえようとゆっくりと歩いていた。
後ろには猟師がいて、矢をサギに向けていたが、サギは全くそれに気づいていなかった。アヴァドゥータはサギに敬礼して言った。
「私が瞑想しているときは、あなたの模範に倣い、誰が後ろにいるかを見ようと決して振り返らないようにします。」
昨日は猟師、その前は釣り人、そして今日は獲物を狙うサギ。
集中の始まりと継続について、今日の話は昨日とどこが違うのでしょう。
一見すると同じような話にも見えますね。
聖者は今度はサギにまで敬礼しています。サギは、水辺で魚を狙いながら、ゆっくりと、しかし揺らぎなく歩いています。
その背後には猟師が矢を向けているにもかかわらず、サギはまったく気づきません。
外界の刺激や危険があっても、心は一点に向かい続けています。
この話が昨日と“違う”ポイントは何でしょうか?
昨日の猟師もまた、外界の喧騒に心を奪われない集中力を示していました。
しかし今日のサギは、さらに一歩進んでいます。
猟師は獲物を狙うために意識的に集中しています。
それに対してサギは、背後の危険にすら気づかないほど、自然に魚へと心が流れ続けています。
そこに、ダーラナ(集中)からディヤーナ(静慮)への移行を見ることができそうです。
ここで、静慮とは、努力が消え、心が自然に一点へと流れ続ける状態 です。
心が乱れない、外界の刺激が消える、「集中しよう」という努力すら消える
サギの意識は、魚という対象へ絶え間なく流れ続けています。
それは努力によって保たれた集中というより、自然に続く静かな没入の姿ですね。
三つの譬えを並べると、
・ 猟師は、対象に心を向ける「ダーラナ(集中)」
・ 釣り人は、その集中を保ち続ける努力
・ サギは、努力すら忘れ、「危険すら気づかないほどの深い集中」、自然に対象へ流れ続ける
「ディヤーナ(静慮)」 を象徴しているように見えます。
この話は、ダーラナを超えた 静慮の質 を示す物語と考えるのですが、アヴァドゥータがサギにまで敬礼しているのが、気になりませんか?
アヴァドゥータはその姿に敬礼し、こう語ります。
「瞑想しているときは、あなたに倣い、誰が後ろにいようと決して振り返らない。」
しかし、アヴァドゥータはサギに敬礼しているというより、「ディヤーナそのもの」に敬礼しているように見えるのではないでしょうか。つまり、
アヴァドゥータは、「このサギは偉い鳥だ」と言っているのではなく、
この瞬間、サギはヨーガの真理を体現している。だから、
「このサギの姿を通して真理を学んだ」と言っているわけですね。
猟師の中に集中(ダーラナ)を見た。サギの中に静慮(ディヤーナ)を見た。
だから礼をした。
そう考えると、この一連の寓話がかなりきれいにつながって見えてきますね。
明日は、トビやカラスが出てきます。お楽しみに。
【 用語説明 】アヴァドゥータ
第16話の猟師の話では、The Avadhuta (a great Tantrika Yogi)とありましたので、アヴァドゥータ(偉大なタントラ行者)と訳したのですが、厳密には「アヴァドゥータ」は固有名詞ではなく、本来は称号です。サンスクリット語の Avadhūta は、世俗的な束縛を超越した聖者、自由解脱者という意味です。
サギにまで敬礼する姿を見ると、ここでのアヴァドゥータは「偉大なタントラ行者」というより、「万物から学ぶ自由な聖者」と理解した方が自然なのかもしれません。


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