11.甘露の海に飛び込む
ある時、バガヴァンはお気に入りの弟子にこう言いました。
「大きな器にシロップを満たしておくと、ハエが四方八方からやってきてそこに止まる。あるハエは器の縁に座って甘い汁を飲むが、またあるハエは中へ飛び込み、その中で転がりながら喜びを味わう。
さあ、お前はどうする?
サッチダーナンダ(存在・知性・至福)という神聖な甘露を、縁から少し味わって去るのか。
それとも、すべてを味わい尽くすために、その中へ飛び込むのか?」
弟子は答えました。
「私は縁から飲んで、そのまま飛び去りたいです。生きていたいのです。汁の中で溺れて死ぬようなことはしたくありません。」
それを聞いた師は、微笑んで言いました。
「愚か者よ。この甘露の海に身を投じる者は、決して死ぬことはない。むしろ、不死となるのだ。」
ラーマクリシュナが、この話で伝えようとしたものは何でしょうか。
多くの修行者は、「神と一体になれば、自分が消えてしまうのではないか」という恐れを抱きます。弟子の「溺れて死にたくない」という言葉は、その心理を象徴しています。
しかし師は、消えるのは不完全なエゴにすぎず、本質は永遠の至福と一つになるのだと説いています。つまり、失われるものは何もなく、むしろ真の意味での「不死」を得るのです。
器の縁でシロップを舐めるハエは、神の教えを知識として学ぶだけの人、わずかな恩恵を求める姿を象徴しています。そこにはまだ世俗への執着が残っており、サッチダーナンダの本質を味わうことはできません。
この寓話は、「死ぬことで死なないものとなる」というヴェーダーンタの逆説(パラドックス)を、端的に示しているとも言えるでしょう。
※ サッチダーナンダ(存在・知性・至福)
サンスクリット語で、「ここに在る(サットSat)」「すべてを知っている(チットCit)」「歓喜に満ちている(アーナンダAnanda)」という、究極の幸福、魂の永遠の幸福のことをいう。
※ 第2話「壁の向こうの庭園」との違い
第2話では、高い壁の向こうに庭園を見た者のうち、三人はそのまま飛び込み、一人は戻って人々に朗報を知らせました。
それに対して本話では、弟子は「消えることへの恐れ」によって踏みとどまろうとしています。一方で、壁から戻った人は、真理を体験した上で、人々を救いたいという慈悲から戻ってきました。
つまり、ここで問われているのは段階の違いですね。
まず超えるべきは、ハエのように小さな自己に執着し、恐れに縛られる心。その執着を手放し、至福の海へと飛び込んだ者だけが、真の不死を知ることができる ―― この寓話は、そのことを教えているのではないでしょうか。


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