第16話 ~ 花嫁行列と猟師 ~

16.一点に集中する心(ダーラナ)
 アヴァドゥータ(偉大なタントラ行者)は、太鼓を叩き、トランペットを吹き鳴らし、盛大な儀式を伴って草原を通り抜ける花嫁行列を見ていました。
行列が通る道のすぐそばに、その騒音や華やかさにまったく注意を払わず、ちらりとさえ見向きもしない一人の猟師がいました。

アヴァドゥータはその姿に深く感銘を受け、 猟師に敬礼して言いました。

「先生、あなたは私の師です。 私が瞑想するとき、あなたの心が鳥に集中しているように、 私の心も瞑想の対象に集中させてください。」


ここでは、外界の喧騒に心を奪われず、一点に集中する猟師の話しです。
この寓話は、ラーマクリシュナがしばしば語った「一点集中の心」を象徴しています。

彼の心は、世界の音や色をすべて背後に退け、
その心は、おそらく狙っている鳥だけに向けられていたのでしょう。

多くの人は、「瞑想ができない」と言います。
しかしヨーガの伝統では、瞑想できない原因は、
瞑想以前の集中ができていないことにあると考えます。
心が一つの対象に留まれなければ、その先のディヤーナ(静慮・瞑想)へ進むことはできません。
つまり、ダーラナ(集中)ができない者に、ディヤーナは不可能なのです

パタンジャリ自身がこう述べています。
「ダーラナ・ディヤーナ・サマーディは、質の違う三つではなく、
深まりの三段階である。」

つまり、ダーラナが弱いと、ディヤーナに入れない。
ディヤーナが弱いと、サマーディに入れない。

アベダーナンダは、欧米で行った講義でも繰り返し言っています。

「瞑想ができないのではない。集中ができていないのだ。」

だからこそ、
猟師の“純粋なダーラナ”を寓話として示したのです。
アヴァドゥータは、その姿に深い敬意を抱き、
猟師に向かってこう言いました。

「先生、あなたは私の師です。あなたの心が鳥に向かうように、
私の心も瞑想の対象に向かわせてください。」

ここで語られるのは、
悟った聖者は、聖典の中だけに真理を見ていたのではありませんでした。
市場にも、農夫にも、漁師にも、猟師にも、
神の教えを見出しました。

アヴァドゥータは悟りを得た存在です。
彼が猟師に礼をしたのは、
その集中の姿の中に、ヨーガの本質を見たからです。
ダーラナ(集中)の純粋な姿として。
真理は聖典の中だけでなく、
日常の中にも息づいている という深い理解から。


【 説 明 】
・ダーラナ(集中) ★猟師の段階
「私」が「獲物(対象)」を必死に狙っている状態。
周りの音(雑念)を入れないように意識的に努力している。
  
・ディヤーナ(瞑想)
努力しなくても、意識が遮るものなく対象へ流れ続けている状態。
(例:油を別の器に注ぐとき、途切れずに一本の線になって流れるような状態)

・サマーディ(三昧)
集中が極まり、「私」という意識すら消え去る状態。
猟師自身が消え、猟師と獲物という区別すら消え、ただ純粋な意識だけが残る。

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