第1話 ~ 私はあなた ~


1. ヤントラ、ヤントリ
 「ラーマクリシュナの言葉」の中で、寓話(Parables)が集められているのは第4章です。その冒頭は、次のような言葉から始まります。

「お母様、私はヤントラ(道具)、あなたはヤントリ(それを動かす方)。
私は家、あなたはそこに住まうあるじ。
私は剣を収める鞘、あなたは剣。
私は車、あなたはそれを操る御者。
あなたが仕向ける通りに行い、
あなたが語らせる通りに語り、
あなたが振る舞わせる通りに、私は振る舞う。
『私』ではなく、『私』ではなく、私は『あなた』。」

前章の最後は502話ですが、この美しい祈りの言葉には、なぜか「第何話」という番号が付されていません。そして、第4章で初めて番号が振られるのは、この言葉の次に現れる「504話」です。

つまり、この言葉は実質的には「503話」に相当するものですが、あえて番号が与えられていない――そこには、何らかの深い意図が感じられます。

編者であるアベダーナンダは、この配置にどのような意味を込めたのでしょうか。

実はこの言葉こそ、師ラーマクリシュナの思想――不二一元の核心――を最も象徴するものなのです。

ラーマクリシュナは、単なる知的理解として「私はブラフマンである」と唱える態度を好みませんでした。彼はまず、「母なるカーリー(シャクティ)」を激しく愛し、自らをその道具(ヤントラ)として完全に捧げ尽くすという、「熱い愛の二元」を徹底します。

その結果として、自我(エゴ)は自然に消え去り、究極の不二一元――サマーディの境地へと至る。
彼は、この最短の道を、自らの生き方そのもので示したのです。

ここで、この言葉の直前に置かれている「502話」を紹介しておきましょう。

甘い香りが風に乗って漂えば、蜜蜂は満開の花へと引き寄せられる。
蟻もまた、甘いもののある場所に自然と集まってくる。
そこに「来なさい」と呼びかける必要はない。

人が清らかで完全な境地(パーフェクトマン)に至ると、その甘やかな影響力は自然に周囲へと広がり、真理を求める者たちは、自ずとその人のもとへ引き寄せられる。

真理を悟った者が、わざわざ聴衆を求めて歩き回る必要はない。
自らが清らかな「満開の花」となれば、周囲が放っておかない。

これこそが、真理の道を歩む者にとって最初の到達点――「内面の完成」です。

この「502話」から「504話」への流れは、実に見事です。

502話:内面を清め、満開の花(完全な人間)となる。
空白の503話:その完成さえも手放し、自らを神の道具(ヤントラ)として完全に委ねる。
504話:エゴが極限まで透明となり、言葉を超えた至福の庭園(宇宙の本源)へと入っていく。

「完全な人間(502話)」として香りを放つようになった者でさえ、最後にはこう告げるのです。
「私はただの道具にすぎません。動かしているのは、あなたです」と。

宇宙の本源と私は同一ではない。しかし、その本質において完全に重なり合う。

この究極の謙虚さと明け渡しの境地――
それこそが、「空白の503話」の真の意味なのです。

次回ご紹介する「504話」は、この先に広がるもう一つの世界。
高い壁に囲まれた庭園に登り、その上から至福と歓喜(サマーディ)を垣間見る物語へと続いていきます。

どうぞご期待ください。


【 用語解説 】

※ ヤントラ(Yantra):古代インド発祥の神聖な幾何学模様。または、神のエネルギーを地上に具現化するための「聖なる道具・装置・機械」を指します。

※ ヤントリ(Yantri):そのヤントラ(道具)をデザインし、動かし、祀る「操作者・創造主」のこと。ラーマクリシュナは、目に見える自分を「ヤントラ(機械)」、目に見えない神を「ヤントリ(操縦者)」と呼ぶことで、「動いているのは私ではなく、私を動かしている大いなる存在なのだ」という究極の謙虚さを表現しました。

※ 不二一元(ふにいちげん:アドヴァイタ・ヴェーダーンタ /Advaita Vedanta )

「不二は、二つ(dvaita)ではない(頭につくAは否定の意)」、私と宇宙(神)の本質は、分離した二つのものではなく「同一のひとつのものである」と説く世界観。自分と世界という二元論的な分離は、人間の錯覚(マーヤ―)にすぎず、「私は身体や心ではなく、すべてを包み込む大いなる存在そのものである」と気づくことが、苦しみからの解放(悟り)を意味する。ヴェーダーンタは、「ヴェーダの(Veda)終わり(anta)」を意味する言葉で、ウパニシャッドの哲学体系そのものを指し、近代インド思想の核心でもある。

コメント

タイトルとURLをコピーしました