第15話 ~ サドゥ(聖者)と悪人 ~

15.敵と味方もない、誰をも区別しない
 ある時、一人のサドゥ(聖者)が、人混みの多い通りを歩いていた。  
そのとき、うっかり粗暴な悪人の足先を踏んでしまった。
男は激昂し、聖者を激しく打ち据え、
聖者は気を失って、その場に倒れてしまった。

弟子たちは懸命に介抱し、
ようやく聖者が意識を取り戻し始めたとき、
一人の弟子が尋ねた。

「先生、今、あなたのお世話をしているのが誰だか、お分かりになりますか。」
聖者は静かに答えた。

「私を激しく殴った人だね。」

本当の聖者には、
親しい者と敵対する者との区別など、もはや存在しない。


今日の寓話は、昨日の「犬を抱きしめた聖者」の話と一転して、粗暴な悪人が出てきます。
対を成す、非常に重要なエピソードですね。

「犬と食事を共にする慈愛の極み」と「したたかに暴力を振るわれるという苦の極み」を並べることで、“本当の聖者にとって、誰も区別をしない、敵も味方もない” という、不二一元、アドヴァイタの核心が、より鮮明に浮かび上がります。

昨日の「犬を抱きしめた聖者」は、“すべてを兄弟として受け入れる愛” を示しました。
今日の話は、“敵意を向けられても揺るがない一体性” を示しているようです。

この二つが並ぶことで、ラーマクリシュナの語る「聖者の境地」が立体的に浮かび上がってきます。

真の聖者は、暴力をふるった男を「敵」として認識していません。
彼にとっては、自分とか相手とか、善や悪、浄不浄、これらはすべて、同じ一つの光として、眼に映っているようです。
だから、殴られた瞬間でさえ、「私を殴った人だ」と静かに言える。
怒りも恐れも湧かないのは、“他者”という概念がすでに溶けているからです。

普通の人は、「殴られた=私が傷つけられた」と反応します。
しかし聖者は、「身体に出来事が起きただけ」と見ているようです。
心の中心が身体や自我に置かれていないため、外側の出来事が内側を揺らすことができません。
怒り・恐れ・屈辱は、「自我が守ろうとする時」に生まれます。
しかし聖者は、守るべき“私”がすでに薄く、透明になっている。
だから、侮辱されても、殴られても、誤解されても、心が波立つ“中心”が存在しない。
もっと深い、自我の消失に近い状態。
そして、聖者は粗暴な悪人の背後にある苦しみ、苦しんでいる魂を見ている。
だから、怒りではなく、ただ静かな理解が生まれる。

アドヴァイタの核心は、すべては同じ一つの意識から現れている。
だから、誰も本当には他人ではない。

この理解が、単なる“知識”ではなく“体験”になったとき、
暴力は「私への攻撃」ではなく、ただの出来事として立ち現れる。
すべては一つ。二つあるようにみえて、されど、一つ。

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