1.北カルカッタという都市空間に生きる青年アベダーナンダ
1886年、カリ・プラサード(のちのアベダーナンダ、当時20歳)は、北カルカッタの町中で暮らしていた。
彼の生家は、ナレンドラ(のちのヴィヴェーカーナンダ、当時23歳)の家と同じ都市圏にあり、市場の喧騒、英国官庁の白い建物、印刷所のインクの匂いが交差する、典型的な「都市の中心部」にあった。
しかし、彼が向かっていたのは、そこから 約12〜14km 離れたダクシネーシュワル寺院――都市の外縁にある静寂の聖域だった。
馬車で揺られ、フーグリー川の風を受けながら、都市の喧騒が少しずつ遠ざかり、寺院の鐘の音が近づいてくる。
この道のりそのものが、アベダーナンダにとって「祈りへ向かう道」だった。
都市の青年が、聖なる静寂へ向かうために歩いた往復の道。それは、彼の精神的成長の象徴であり、後に彼が僧院を設立するまでの「内なる旅」の原型でもあった。
2.共有していた精神的背景
― ブラフマ・サマージという思想空間
カリ・プラサードとナレンドラが共有していた「青年期の空気」。
それが ブラフマ・サマージ である。
アベダーナンダは自伝(『My Life-Story』p608~)で、青年期にブラフマ・サマージの集会に参加していたことを明記している。
その頃、私は著名な演説家の講演を聴くことを好んでいた。
私は、スレンドラナート・バンディヨーパーディヤーイ、カルチャラン・バンディヨーパーディヤーイ牧師、ブラフモ・サマージのケシャブ・チャンドラ・センやプラタープ・チャンドラ・マジュムダール、ラルモホン・ゴーシュなどの名高い演説家たちの講演が開かれると、いつでもどこへでも出かけて行って聴講した。
1882年、ブラフモ祭の折に、ケシャブ・チャンドラ・センが街路を賛美歌を歌いながら行進してビードン広場にやって来て、そこで講演を行った。
私はその講演を聴きに行った。
講演の途中で、ケシャブ・チャンドラ・センはこう言った。
「私は至るところにハリ(神)を見ている。見よ、あそこにもハリがおられる! 向こうの木の一枚一枚の葉にも、その枝の一つ一つにも、私は神を見ている。」
その情熱に満ちた言葉は、今なお私の心に消えることなく刻み込まれている。
ケシャブ・チャンドラの表情や身振りを見ていると、彼が本当にシュリー・ハリを直接見ているのだという印象を私は受けた。
そして、ナレンドラもまた、同じブラフマ・サマージの青年グループに属し、同じ講義を聞き、同じ空気を吸っていた。
つまり、二人は、ラーマクリシュナに出会う前から、同じ思想空間に身を置いていた。
次回予告
次の回では、アベダーナンダの、師ラーマクリシュナとの出会い、そしてヴィヴェーカーナンダとの劇的な最初の接触、をお送りします。
【 脚 注 】 ブラフマ・サマージとケシャブ・チャンドラ・セン
― ベンガル・ルネサンスの中心にあった思想運動
(1)ブラフマ・サマージ(Brahmo Samaj)
1828年、ラーム・モーハン・ローイによって設立された宗教・社会改革運動。
ヒンドゥーの古典、ウパニシャッドを基盤にしつつ、キリスト教・イスラムの一神教思想を取り入れた普遍的一神教・倫理改革運動である。
偶像崇拝を否定し、カースト制度批判、サティー(寡婦殉死)の廃止運動、女性教育の推進、英語教育と近代合理主義の導入などの改革は、当時のカルカッタ青年たちに強烈な影響を与えた。
(2)ケシャブ・チャンドラ・セン(Keshub Chunder Sen)
1838年生まれのブラフマ・サマージの第三世代リーダーであり、天才的な雄弁家として知られた。
20代で頭角を現し、カルカッタの知識人・学生たちを魅了した。キリスト教的情熱を取り入れた祈り、社会改革への熱狂、新しい宗教的普遍主義の提唱などの、彼の演説は、アルバート・ホールを中心に、毎日のように若者たちを集めていた。
(3)ラーマクリシュナとの運命的出会い(1875)
ケシャブは、ダクシネーシュワル寺院のラーマクリシュナに出会い、その純粋な神への愛に圧倒された。
彼は新聞や雑誌で、「本物の聖者がいる」と紹介し、これがきっかけで、カルカッタの青年たちがラーマクリシュナのもとへ集まるようになった。その中に、ナレンドラも、カリ・プラサードもいた。
このブラフマ・サマージが、ラーマクリシュナの直弟子たちを生み出す“母胎”となった。


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